なんで?
最近では鬱っぽい症状は出なくなって、毎日脳内ハッピーセットで家で音楽かけて踊ってるくらいめでたい野郎になりました。
だけれどなんかね、時々出所がわからない感情が溢れ出る瞬間があるんですよね。本当たまーに。何がきっかけでそうなってるのかもわからないんでほんと困りますよね。
一番は自分が何に対してストレスを感じているかが自覚できないと言うところが根本な気がしますわ。だから、溜まりに溜まって溢れ出す瞬間が訪れると、、大体は一人の時にそういうことが起こるのですが、昨日はそうではなく友人の隣でそれが起こってしまいました。私も困るし相手も困るしってことで、なーにやってんだよって感じ。友人は寝たと思い込んで一人になったからなんですかねー、一人じゃないのに一人的な
散歩に行こうとタバコ探してたら探してる音で相手を起こしてしまいました。
まー原因はよくわかんないけれどとにかく睡眠阻害という悪いことをしてしまった。ごめんなさい。
翌日もなんだか気分は晴れずに家帰って17時まで寝てました。根源がわかんないため対処もできず、根源が何かを考える元気もないためそのまま引きずることに。今では割と楽になったけれど、なんか晴れないってことで気持ちの整理として今コレを書いています。
まあでも過去の自分の比較したら成長してますわ以前はネガティブだし、自分のこと好きじゃないしってな感じだったからね。今では大体のことはポジティブに変換しちゃうし、自分が世界一好きだしってな感じでめでたいヤツになりました。
でも結局意味なんてないって言う言葉を胸に日々の生活を送ります。
ところで生きがいってなんだ?
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「喜び方が足りない」もっと喜ぼう
そんな言葉があるが、一体どういうことなのだろうか。
心の底から喜びを感じることが出来なかった場合だとしたら、それは本当の喜びなのだろうか。偽りの喜びでもいいのだろうか。喜びという感情は自己の精神的状態を前向きにさせてくれるものだとは思うが、それは心の底から喜びをかみしめた場合のみなのではないのだろうか。自己を偽って喜びを表現した場合、自分の頭の中では納得がいっていない自己が存在しておりそのせいで本来喜ぶべき事象を心から味わうことが出来ないのであろうか。一方で、偽りの喜びを表に出し続けたそれが習慣となった場合、いつしかそれが本当の自分の感情となりうるのだろうか。感情というものは自己の潜在意識により生み出されるものであって、それを偽ることが可能なのだろうか。自分の中から湧き出る感情はコントロールできるだろうが、その源泉はコントロールできるのか。その源泉をコントロールできるのならば人生はより豊かなものになるだろう。それをコントロールできるもこそ人生の謳歌できる人間なのだろうと思った。感情をコントルールしようとして、自分なりの論理を構築して論理通りに自分を働かせたとしても、自己が無機質化するだけであって操作された感情をを味わうだけが楽しいものなのか。わからない。本来湧き出る自分の感情を無視したところで、本当の感情は自分の中に存在しているという事実は消せないものなのではないのだろうか。自己の無機質化に成功したとしてもそれには限度があり、結局のところ人間は感情に左右される生き物なのだろうと思った。どうすれば喜べる事象に対して心の底から喜ぶことが出来るのだろうか。わからないままだ。
無理
自分は状況に関わらず、感情が顔に出るタイプなのだが、最近本当に辛いにも関わらず一人の時でしか感情が顔に出ないようになってしまった。
これがいいのか悪いのか、幸運にも自分はいい人間に囲まれていて、しんどそうにしていると手を差し伸べてくれる人がいる。しかし、逆を言えばご機嫌取りをさせてしまっているということになる。ご機嫌取りはさせたくない、そう言った点ではいいのかもしれないが、今まで感情の吐き出し方が他人頼りであったためうまく吐き出さずにいる。
いつもと違う自分に困惑している。
散々色んな人を頼り話を聞いてもらった。
もう十分だ。
そう思っている。
このどうしようもない悩みは解決策がないのだ。しかし、時間が解決してくれる。
これは間違い無いと思っているが、それまでどうしろというのだ?
人と遊ぶのも疲れた。素直な自分を出せずに無意識に取り繕ってしまう。
もう哀しみは十分だ。
もう自分はたくさんの人間に囲まれて幸せだ。
そう思うために毎日言い聞かせているが、哀しみがそれを邪魔をする。心の底から周りの人間に感謝したいのにそれができないでいる。それも苦しい。
辛い。苦しい。逃げたい。
もう哀しみは十分だ。
助けて。
無価値
自分も自分以外の人間も全て無価値
それだけでなく全てものが無価値
今までで数え切れないほどの人間が生まれて死んでを繰り返してその過程の一つに過ぎなくてこれからもそれを繰り返していくだけだ
自分が死んだって世界からしたら人口の数字が1減るだけで世の中の動きが変わることもなくそれはもう誤差に過ぎない
影響受けるのはせいぜい身内なだけでその人達がどうなってようが世界はいつもと変わらず動き続ける
すなわち自分たちなんてどーでもいいということ
これはスケールが大きい場合の考えで
主観的に見たら自分のことは大切ではあるが、
ただ客観的な視点と主観的な視点を混在させると
今まで生きてきた中で様々な悲しい嬉しいなどの感情を抱いてきたが所詮その程度でそれ以上それ以下でもないし、そっかーしょうがないで済ませばよく、ふーんそんなもんかと思っておけばいい
基本的に人間は外的な要因から影響をうけるといったことを前提に考える
今までの自我の形成もそうやってきた
外的要因はあくまで外的であって自分じゃどうすることもできない
しょうがないこの一言で済ませるのが楽でかつ自己の無駄消費を防ぐのだ
過去のことで悩むのが一番無駄で何のメリットもない、考えるのはいいがそこから反省するだけそれだけで十分
物事は各々が勝手に意味づけたもので溢れているそれから多数派の人たちがあたかも正しいかのようになっていて、そんなのに惑わされて虚偽の正解を追い求めてはいけない自分を見失うから
正解なんて追い求める必要なんてないのだ絶対的価値など存在しないのだから
過去考えても何も意味がない
あ
大学に入って3年目の夏、いろいろな人に会ってきた。色んな人に会ってきた分自分の中で葛藤が生まれる。人間それぞれ考え方も感じ方も違うから合う合わないが出てくるのも当然だ。ただこうも大きく違うのか、と思うことがある。そのせいで度々不愉快な思いになることがあり、わかってほしい自分とわかってくれないだろうと思う自分が戦っている。なぜなのか、なぜ何もしていない自分が不愉快な思いをしなければならないのか。ただ、そう思うのも自分が気づいてないところで相手に不愉快な思いをさせて相手はそれを我慢してくれているのかもしれないと言う意識は忘れないでいたい。
最近、私はしつこい人間がとことん苦手だなと感じる。しつこいのは大丈夫だが、しつこいのがしつこいとそれはもう許容範囲外になってしまう。そこにおいてのキャパは少ない。一度キャパオーバーしてしまった相手には怒りっぽくなってしまう。それが悩みでもある。なぜ寛容に接してあげられないのかどうすればいいのかわからなくなる。ただ、ここまで考える必要があるのかと言われればないが、相手は変わってくれない。なぜならしつこいのがしつこいことを自覚してないからだ。自覚させることは難しい。実際、否定的な相手に否定的であるという旨を伝えるとそうではないという返答が返ってくることが多い。何が言いたいのかと言うと、そう言う人間は自覚するチャンスがあるのに自覚しようとしない、ということだ。だから自分が変わるしかなく、日々頭を抱えている。
許す=忘れる
よくわからない偉そうな人間は一定数いるものだ。自分の読んでる本を見て「もうちょっと簡単な本をよんでみたら?」と一言。別の日には「男らしからぬものを」と。私はこの言葉を放った人間のことを忘れない。たったひと言であるが、私の大好きなものを否定してきた。よく人外的発言ができたものだ、と拍手。なぜそのような発言ができるのか私にはわからない。人の趣味を何一つわかってないくせにわかったような口振りで物を言ってくる。受け流す余裕など私にはない。それができたら人生は楽で楽しいもので溢れるだろう。受け流そうとしてもどうしても脳裏にチラつく。私を傷つけた人間たちが。そんな奴らはそんなことも覚えているわけもなくのうのうと生きている。実に腹立たしい。これ以上嫌悪の対象を増やしたくないから心なしな言葉をいうのをやめてくれというのが今の私の願いである。
私は絶対に忘れない。
頼るってなに?
人を頼るってなんですか?
私は聞き手にしか回ることができないので人の話を聞きますが、ふとした時に自分って都合の良い人間なんだなって思う時があり、それがなんだか最近嫌になってきてます。
最近の自分は落ち込んでいる時に話を聞いて欲しいなんて思わなくなりました、それは相手なんて自分の話に興味ないんだろうなっておもてたことが多いからです。まあそれはそうですよね他人の病み事情なんて興味ある人の方がおかしい。
自分が人の話を聞いている時は真剣に向き合いたいので真剣に話を聞くし真剣に考えますが、立場が逆転したら相手は大して真剣になってくれている気がしないと思うことが多い。相手に見返りを求めるなんてなんでバカなんでしょうね。